学校時代--

 私の東京の友人松山氏家族と共に晩飯を食べに行った時に話題として上がったのが「夏休みに登校日 があるかないか」と言う議論でした。松山氏は愛知県出身、奥さんは生粋の東京人で私は新潟県人なの ですが、「登校日があった」と言う松山氏と私に対して、奥さんは「そんなのなかったよ」と言ってのけ、 「おいおい、なんだそれは??」という話で大いに盛り上がったことがありました。ネタの少ない我が ホームページで少しでもお茶を濁すため?に、おもに小学校時代の勉強以外の 思いでを語るコーナーにしようと思っています(笑い)  やれやれ。年がばれそうだな(笑い)

夏休みの登校日
     最初に書いた回転寿司屋での議論で特に話題として盛り上がったのは夏休みに登校日があったかどうか? と言うことでした。私たち三人は多少の差こそあれ年代的には一括り出来るほどの差しかありません。私の所は夏休みには登校日が ありました。8月の10日と21日です。松山君の所も21日は登校日だったようです。では一番若い松山君の奥さんはと言うと、 「そんなものなかったよ」とこともなげに言います。
     私たち二人は「なに?」と口をそろえました。(多分彼もだと思いますが私は内心「それは聞き捨てならん話だ」と思って聞いてい ました(笑い))登校日が1年で2日も少ない。6年間で計12日も違う。おいおい、話が違うぜ!と言う感じでした。東京都内には 登校日はなかったのでしょうか。「なんでそんなのがあるの」と逆に聞かれるします。くぅぅぅ。。。って感じでした(笑い)

21日の謎
     はもうばればれと言うかみんなすぐに判りました。これは先生方の給料日だったと言う理由で意見が一致しました。先生方が給料 貰いに学校に出てくるのに我々生徒は道連れにされていたのか。。。。と思うとなんともはやと言う気がします(苦笑)。余談ですが 中学校の頃は21だったと思いますが水泳大会などのイベントがあったように思います。東京都全域で先生の登校日がなかったかど うかまでは判りませんが、東京では先生にとっても文字通りの夏休みだったことでしょう。

夏休みのノルマもの
     小学校の夏休みと言えば毎朝のラヂヲ体操とプールに、ドリルとプリント、自由研究(夏休みの工作)と”ノルマもの”が目白押し でした。特にラヂヲ体操は我々の頃はかなり遅くまで(小学校高学年頃からはお盆前に終わっていたと思うが)毎日開催されており 小学校のグラウンドが見えるような場所に住んでいた私は、サボるわけにも行かず(笑い)寝ていても強烈なボリウムで起こされて、 毎日通ったものです。
     ノルマ点検には葉書大のカードが配られ○の中に「出」と言う文字の判子が毎日一つづつ押されました。確か小学校の低学年頃は 7月から8月の終わりまでびっちりと判子が並んだような気がします。皆勤賞だったか、最後の日の景品だかまでは覚えていません が最終日の体操が終わった後にノートや画用紙、鉛筆といったのが配られた記憶があります。年が進むにつれて期間が短くなり、最終 的には8月の10日くらいまでになったんじゃないのかな。景品は年毎に違いましたがスーパーボールやこんにゃくボールをはじめ とした遊び道具や文房具、最後の方の年はなかったと思います。

     また、プールもノルマ制でした(笑い)プールは夏休み期間中に5回。見張りはPTAが持ち回りで行いました。今でこそ仕事をもつ両 親が大半で夏休み注意にプールを開放しない所も多いと聞きますが、娯楽の少ない私たちの時代にはプールはノルマでなくても毎日 のように通いました。(余談ですが、私は小学校2年生まで泳げなかったのでこのノルマは苦痛でした。3年以降は逆に毎日のように プールに通い、クレオソートでも塗ったみたいに真っ黒に日焼けしたものです。)
     夏休みのドリルは大体7月の20日前後に配られ(注:新潟では25日から夏休みである)、判りそうな所はその日のうちにやって しまい、ごまかしの聞かないもの(絵日記など)は3日に一回くらいづつ片付けるパターンでした。自由研究は絶望的に不器用なため に、ついぞまともな作品を出したことはなかったですが、例年では8月31日に製作に取り掛かり、9月1日の始業式が終わってから 半べそをかきながら作品と宿題の残りを終わらせると言うパターンを毎年踏襲しておりました。喉もと過ぎれば熱さ忘るる。毎年の ように苦しんでいながら、毎年のように懲りていませんでした。

給食 - 数少ない娯楽(笑い) -
     学校が好きで好きでたまらない人も中にはいるかもしれませんが、その他大勢な部類な私にはそれほど好きではありませんでした。 ただ学校から家まで5分程度で、どんなに天候が悪かったりしても休むための口実にならなかった私は皆勤で通わされました。その 中でも数少ない娯楽が給食の時間です。
     現在なら当たり前と思われる米の飯の給食は私らの頃は珍しく、主食はコッペパンか食パン、ソフト麺で、たまに出る揚げパンなどは 家で炊き込み御飯やカレーが出たときくらいの喜びがあったものです(結構つまらないことに感動してたんだなあ(笑い))

     印象に残るメニューとしては食パンならあの固いマーガリン。塗ろうとすると柔らかいパンの部分が破けるほどの固いマーガリン。(笑い) 揚げパンの時はたいてい余りが出るので争奪戦になっていました。ソフト麺ならミートソースでしょうか。あのカレー風味のスープ やカレーもあったかな?ウズラの卵の入った奴。
     そうそう、ソフト麺と言えば先割れスプーンですね。今は危険だから出さないかもしれませんね。昔は食器や皿、スプーンもフォー クもみんな金属製でした。安全性から言えば今の方が高いのでしょうがなんだかままごとの道具みたいな感じもしますね。でもいい 面もあります。金属製のスプーンと皿がこすれ合う時のあの音ね。アレは慣れませんでしたね。。
     そして、また各地方の流儀の話になりますが、うちのクラスではソフト面といえば半透明の袋に入っており先割れスプーンの先の部分 で袋を左右二つに分け、半分づつ分けて入れたものです。丸1個入れると容器が小さいために、伸びたラーメンのようになってしまって 見た目も良くなく食欲も減退してしまいます。これも各地で色々あったようで、丸1個入れるとか、袋を開けるときにお絞りのようにパン! と割って破くとか、あるいはソフト麺がないと言う文化の全く違う所もありました。ソフト麺や揚げパン、ミルメーク(牛乳に入れる粉末 コーヒー。。。一部液体(原液のような?)もあり)は給食の王道アイテムだと思っていますが皆さんのところはどうでしょうか。

牛乳にまつわる話。
     給食と言えば切っても切れないのが牛乳です。今(2002年8月)TVでも”マネーのへら”なるものを やっていますが、子供の頃はみんなやったもんです(笑い)
     牛乳と言えば、骨までしゃぶると言う表現に値するくらい活用しました。まず、給食の始まる段階で すでに男子生徒の遊びの対象です。当時はビン牛乳だったので、紙製の蓋とその上にかぶさるようにセ ロファンのようなものがかぶさっていました。普通は真四角いセロファンですが、たまにエラーで横に 長いセロファンのかぶった牛乳があり、それがヒーローモノのマント(黄金バットをはじめヒーローモ ノには必須アイテムだった(笑い))をイメージさせることから争奪戦になりました。
     牛乳自体は美味しく飲みましたが、ミルメークが毎日つくわけではありません。時にはデザートのオ レンジ(グレープフルーツでも出来たと思う)の絞り汁に牛乳をたらし、酸で牛乳が固まるのをヨーグ ルトだとか言って作って遊んだりしました。食べた記憶はありませんが。。。(笑い)
     さらに牛乳の紙の中蓋はパッチ(俗に言うメンコですね)をして遊びました。私は当時隣に学年が一つ 上の男の子が住んでいてよくやらされたのでパッチは得意でした。給食で大体一人一枚ずつ持って昼休 みに大会が始まるわけですが、最盛期では机の中が牛乳ビンの蓋で一杯になったこともあります。大変 活用し甲斐のあるアイテムだったわけです。

通学をいかに楽しくやるか
     学校が近いせいもあって余り活用することは無かったですが、毎日同じ顔を突き合わせて通うと自然 に遊びながら通うことになってしまいます。やはり思い出に残っているのは草相撲でしょうか。オオバ コを引っこ抜いて対戦相手とクロスさせ引っ張り合うと言う単純な奴です。引っ張るタイミングと茎の どの辺が強いのかなどと工夫を凝らしました。耐性の強い奴(笑い)だと3戦4戦くらい持つものもあり ました。

     高学年の頃はまったのは松葉ですね。松葉を先っちょだけ3,4cm程の長さちぎって、実の若い奴(松ぼ っくりになる部分の若く小さい奴)をもいで指でぎゅっと挟みます。そうするともいだ付け根の方から 水飴みたいな透明な液体が出てくるので、松葉の端っこに塗りたくります。それを水に浮かべると、 液体の油分が拡散する時の力で軽い松葉に推進力が生まれ、自走します。これは結構遊びました。 
     中学の頃は2Km位徒歩で通学でしたが、殆ど一人で黙々と歩いただけでした。と言うか朝寝坊だった ので遊びながら通うだけの余裕が無かったのです。帰りは部活の仲間とだらだらと喋りながら帰りました。

はまったモノ
     小学校の時に比較的ブームになった遊びとして”消しゴムカー”があります。
     ”サーキットの狼”と言う漫画が火付け役でスーパーカーブームが長く続きました。そこで登場した のが消しゴムカーだったわけです。
     ”こち亀”でも遊び方の一例が紹介されていましたが、まさにアレ状態でした。机の上に比較的小さ い国語や算数の教科書を2冊、間を空けて並べます。すると8の字のコースの出来上がりです。あとは ノック式のペンを押してペン先を出した状態で”カー消し”の尻に近づけ、ペン先を引っ込めるための ボタンを押してペン先の反対側のノックボタンの戻る反動を利用してレースをします。まぁレースと言 うより双六みたいな間隔に近いのかな。一回のボタンでどれだけ進むか、みたいな感じでやってました から。。。

     なんでも凝り性な奴はいるもので、その内に車に改造を施すものが現れました。プラカラー(プラモ デルの専用塗料)でカラーリングをしたり、タイヤの裏側にセメダインやプラカラーで摩擦を極端に減 らしたカスタムカーが出現しました。
     それまではペンのばねを強化して臨んでいましたが、カスタムカーが出現してからはペンのばねを弱 めてデリケートな反動を追求しました。そう、ゴルゴ13じゃないですけど「鳥の羽根が触れても云々」 て奴です。タイヤの裏をセメダインなどでコーティングすることで摩擦が皆無に近い状態になり、爆発 的な推進力を得ても机から転落したのでは何にもなりません。どれだけのペンを駄目にしたやら(笑い)


    机から出土したサンプル。ランボルギーニ・ミウラ(左)にランチア・ストラトス(右2台)
    爪楊枝の先にプラカラーを付けて車に塗装(笑い)する。タイヤにも塗って摩擦をなくす

     後にコースの難易度を高くしてモナコのようにして遊んでいたら、しまいにはリアスポイラーを上か ら突付いてウィリーのような状態で教科書の上をショートカットすると言うアクロバティックな技を開 発する輩も出現しました。小学校時代はこれが一番思い出に残っています。あとは”助け鬼”かなあ。


     中学校時代は立体パズルでした。中でもルービックキューブを1分以内に終わらすなんてことに情熱 をかけていたものです。自習時間や授業中にもやっていました。自己ベストは40秒台だったと思いま すが今やってもとても出来ないでしょう。
     その後、ルービックリベンジと言う立体パズルが出ました。4X4X4のキューブです。これは未だ に完璧な揃え方を把握出来ません。買ってきて色を崩して最初に揃ったのは1週間後でした。でもその やり方も揃わない時があり完璧ではありません。
     あとテンビリオンとか言う樽のような中に小さいボールが入っていて、その色を揃えるパズルも一時 懲りましたが、とうとう出来ませんでした。根性が足らん^^;

     

    ルービックリベンジ(左)とテンビリオン



小学校時代の思い出が一番あるなぁ
     今では窓からは裏の家しか見えなくなりましたが、かつてはグラウンドまで良く見えていました。そ んな所で育ったせいか、学校を休むことは許されなかったし、今でもすぐそこに建っているので、やは り小学校の思い出が一番印象が深いですね。なによりうちの小学校はフランクでした。(と思う)
     まだ購買部があったりとか、バザーでイタリアン(知る人ぞ知る新潟を代表するB級食品(笑い))を 売ったりとか正月には独自の年賀状システムなんかもありましたっけ。年賀状は郵便法か何かの絡みで なくなり、バザーも無くなったと思いますが結構フランクだったんだなぁと思います。中学はとにかく 通うのに遠かったのと、部活の思い出しかないですね。高校に至っては思い出したくも無い(笑い)
     よくタモリが「俺の人生のピークは小学校の低学年だった」とか何とか言うネタをやってますが、あれ って結構わかる気がします。私も小学校の頃がピークで後は坂を転がり落ちるだけの人生を送ってます から(笑い)

     なんか思い出したらまた書きます(笑い)




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